新元号「令和」の典拠となった万葉集の編纂に携わった人物とされており、歌人としても万葉集に473首もの歌を残した大伴家持。
ここ富山県高岡市の伏木は奈良時代に越中国の国府が置かれ、その国守として大伴家持が赴任した地でした。
またこの赴任期間中である天平18年(746)から天平勝宝3年(751)の5年間には、223首もの歌を詠んだとされています。
その後の伏木は、江戸時代に北前船の寄港地として繁栄し、明治時代からは気象観測が開始されました。この気象観測は現在も続けられています。
駅舎↓↓↓
駅前にある義経・弁慶像↓↓↓
かつて高岡市伏木と射水市六渡寺を結ぶ「如意の渡」の伏木側渡船場近くにあった像。
「如意の渡」が廃止されここに移設されました。
「義経記」の有名なシーンを表現しているとゆう事です。
現在「如意の渡」があった場所には「伏木万葉大橋」が架かっていて、橋には大伴家持が詠んだ4首の歌碑が設置してありました。
伏木万葉大橋(高岡市伏木側)↓↓↓
歌碑↓↓↓
伏木万葉大橋からの眺め↓↓↓
遠く微かに見える立山連峰↓↓↓
伏木万葉大橋(射水市六渡寺側)↓↓↓
伏木の町中↓↓↓
なにやら凄いネーミングですが、「けんか山」とは毎年5月15日に行われる伏木曳山祭とゆう伏木神社の例大祭の別称で、「かっちゃ」とゆう山車同士のぶつかり合いが見どころの大変迫力のある祭りだそうです。
旧伏木銀行(現・高岡商工会議所伏木支所)↓↓↓
旧伏木銀行は明治43年(1910)に建てられた土蔵造りの町家のデザインを基調に洋風のデザインを取り入れた建物で、現在は高岡商工会議所伏木支所として使用されています。
・気象観測所のある町
高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)↑↑↑
伏木測候所とは伏木港を出入りする船舶の安全を確保するため気象データが必要だったため、藤井能三とゆう方が明治16年(1883)に私財を投じて伏木燈明台の一室に設立した日本最初の私立測候所。
2度目の移転先となる現在の地では明治42年(1909)から気象観測が開始され、現在でも観測が続けられています。
地元の発展のために尽力された藤井能三氏の胸像↓↓↓
現在の気象観測機器↓↓↓
資料館では係りの方に説明していただき、いろいろな気象観測機器や明治期の「大日本全国天気図」、明治から昭和にかけての測候所員の気象観測日誌など貴重な資料も拝見させていただきました。
またこの資料館がある場所は、大伴家持などの国守が住んだ「国守館」の跡地と推定とされています。↓↓↓
・望楼のある町
高岡市伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)↑↑↑
江戸時代、北前船の寄港地として繁栄した伏木で廻船問屋を営んでいたお屋敷。
秋元家は文化年間(1804~1818)以前から海運を家業とし、当初は船頭などの宿泊施設でしたが、その後は廻船問屋を営むようになっていったそうです。
※北前船とは、北海道から日本海沿岸の諸港を寄港して下関から瀬戸内海を航行し大阪に向かう船で、寄港地で商品を売買して利益を上げる買積み廻船。伏木辺りでは買船(ばいせん)と呼んでいたそうです。
土蔵には数多くの「引札」が展示されていました。これは今で言う商店の広告チラシのようなもので、遠方まで宣伝できる手段として重宝されたそうです。
また年末年始の挨拶の品として得意先に配られる事が多かったので、めでたい図柄が多いそうです。
そして、このお屋敷の特徴として、港への船の出入りを見張る「望楼」とゆうものが残っています。↓↓↓
さっそく望楼へ!!
踊り場が畳敷き↓↓↓
階段をのぼった正面にある部屋↓↓↓
急な階段↓↓↓
到着!!
望楼からの眺め↓↓↓
遠く微かに見える立山連峰と新湊大橋↓↓↓
秋元家に伝わる古文書によれば、安政4年(1857)に加賀藩の重役達が海岸視察の際に秋元家で休息した時、蔵前2階から遠眼鏡で港を眺めたと記されているそうです。
天気も良く、とても素晴らしい眺めでした。
・勝興寺が建つ町
勝興寺の唐門↑↑↑
雲龍山・勝興寺は、文明3年(1471)に本願寺第8世の蓮如が越中国砺波郡に土山御坊を開いたのが起源の浄土真宗本願寺派の寺院。
ここは越中国庁跡と伝承される場所であり、戦国時代には古国府城が築かれました。
その城跡に勝興寺が建っているため、周囲には古国府城跡のものとされる土塁や空堀が残っています。
本堂や唐門・総門など建造物12棟と「紙本金地著色洛中洛外図(六曲屏風)」 の1双が国の重要文化財に指定されており、数多くの寺宝が富山県の文化財に指定されています。
現在は「平成の大修理」とゆう平成10年(1998)から約23カ年計画で行われている保存修理事業期間中です。
伏木駅から勝興寺へ向かう道↓↓↓
門前に建つ大伴家持像↓↓↓
総門は大修理中↓↓↓
唐門↓↓↓
本堂↓↓↓
勝興寺には七不思議が伝わっているとゆう事なので少しだけ探してみました。
実ならずの銀杏(分かりづらくてスイマセン)↓↓↓
天から降った石↓↓↓
屋根を支える猿(実は天邪鬼らしいです)↓↓↓
大修理中の勝興寺ですが、建物内は本堂や金色の奥書院、台所や大広間などの場所が見学できました。
・そのほかの越中国府に関連する場所
「越中国分寺跡」とされる場所には薬師堂が建っています。↓↓↓
「越中総社跡」の伝承地とされる場所は、越中国一宮である気多神社の境内にあります。
気多神社の創建については諸説あるそうですが、その歴史は奈良時代に始まったとされています。
気多神社の入口↓↓↓
拝殿↓↓↓
本殿は国の重要文化財に指定されています。↓↓↓
越中総社跡の伝承地↓↓↓
国守が国府に赴任すると、総社で着任の儀礼が行われたんだそうです。
とても厳かな雰囲気のある場所でした。
越中国の中心地から港町へ姿は変わっても、町の人たちが文化財を大切にしてきたからこそ、いにしえの万葉の里の名残が今も町に息づいている。
そんな感じがする町でした。
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