喜連川 お殿様はお客様? その2

喜連川家の装束

どんなに格式が高くても喜連川家は無位・無官であり、

装束は基本それに照応するものとなっていました。

無位無官の装束は、平士(ひらざむらい)も着る素襖に紫紐の士烏帽子

白無垢縬熨斗目(しじらのしめ)でした。

素襖は無位・無官の礼服とされ、最下級の装束とされています。

士烏帽子も素襖着用時に被る烏帽子でした。

しかしながら縬熨斗目は侍従以上が着る規定になっていたり、

士烏帽子の紫紐は将軍が使う色とされ、通常は使うのを憚られていた色でした。

これも「無位・無官 高無にして5000石」ながら、

全体的に高い格式の複雑な喜連川家ならではを表す装束とゆう事なんだそうです。

因みに江戸幕府からの正式な武家官位ではありませんが、

喜連川家当主は歴代の鎌倉公方が叙任された「左馬頭」「左兵衛督」や「右兵衛督」を称して

いました。

もちろん表向きは「無位・無官」ですが、これも特別に許された事だったそうです。

■10万石格の大名並みになった時期は?

喜連川家は10万石格の大名扱いを受け、いろいろと厚遇されていますが、

いつ頃から10万石格の大名として扱われるようになったのでしょうか?

江戸時代に大名・幕府役人名鑑とも言うべき「武鑑」とゆものがありました。

1716年(正徳6年)に喜連川家は初めて大名と同じ扱いで記載され、

この時に10万石格の大名として扱われたと考えられているそうです。

その前年の1715年(正徳5年)の武鑑には喜連川家の名は見当たらないそうですが、

1714年(正徳4年)の武鑑には喜連川家が記載されていて、

この時は無官高家衆として扱われています。

喜連川家が武鑑に記載されるようになるのは1684年(貞享元年)の太平江戸鑑からで、

ここでも無官高家衆として記載され、以降1714年まで同じ扱いでした。

この時期、喜連川家は年頭拝賀礼を諸大夫の後に無官・高家と共に行っていたので、

武鑑はそれを反映したものになっているそうです。

なぜ1714年から1716年の間に10万石格の大名として扱われるようになったのか?

喜連川家では1712年(正徳2年)に幕府から古書物の提出を命じられていました。

正徳期は新井白石や間部詮房が儀礼重視や家格の再編を通して将軍の権威を高めようとしてい

た時で、

このような幕府の動きと関連して古書物も提出されたと考えられています。

提出した古書物は喜連川家の系譜が記載されたもので、由緒に基づいた高い格式を主張するも

のであったと考えられています。

そして、この事が後に10万石格の大名として扱われるようになったきっかけだと推察されてい

るそうなんです。

恭順か? 佐幕か? 幕末の喜連川藩

徳川家康以降、長く江戸幕府より厚遇されてきた喜連川藩。

そんな喜連川藩にも決断の時は迫ります。

幕末、藩主は12代目の喜連川縄氏でした。

縄氏は徳川御三家のひとつである水戸徳川家の9代目当主・徳川斉昭の11男でした。

しかもこの時の将軍は15代目・徳川慶喜で、慶喜は縄氏の実兄とゆう何とも言えない状況!!

長い間、江戸幕府より厚遇され、しかも将軍は実兄。

だから幕府側で戦うのか?

それとも時代の趨勢には逆らえないのか?

新政府への恭順か?

それとも佐幕か?

藩論は2つに分かれ激論があったそうですが、

最後は家老と留守居を京都に派遣して新政府弁官役所に恭順の意を伝えました。

その時、喜連川家は元来「王臣」であり、徳川幕府下でも禄を受けず、

「賓礼」の扱いだったと主張し、

諸大名と違って「徳川家の藩屏ではなかった」と釈明しています。

つまり、「ウチは天皇の臣下であり徳川家のお客様だったので徳川家の臣下でありません。

だから幕府ではなく朝廷・新政府側に付きますよ」とゆう感じでしょうか。

喜連川家の高い格式は、朝廷への服従や新政府への恭順を説明する理論としても使われていた

んですね。

いかがでしたでしょうか?

徳川御三家や国主以上の高い格式から、高5000石は交代寄合や旗本のような格式まで、

他に類を見ない複雑な格式がある不思議な喜連川家。

江戸幕府の支配体制の中でも唯一、主従関係ではなく「お客様」としての関係を保ち、

足利家の末裔としての誇りと高い格式を貫いたと言えるのではないでしょうか?

■喜連川の風景

連城橋

↑連城橋から、お丸山公園方面を撮影

喜連川家 菩提寺 龍光寺 山門

↑喜連川家の菩提寺「龍光寺」の山門

御用堀

↑御用堀

寒竹囲い

↑寒竹囲い

喜連川 大手門 復元

↑喜連川家の館跡に建つ復元大手門

お丸山公園

↑お丸山公園頂上より

喜連川家 居城 移築 裏門

↑喜連川家の館から移築された伝・裏門(個人宅のため見学には十分な配慮をお願い致します)
(※ 喜連川家の館の唯一の遺構であったこの裏門は2021年に焼失してしまったため現在はありません)

この裏門と伝わる門について、家のご主人にお話を伺ったところ、
移築されたのは明治の初期で、時代が変わってまだ世の中がドタバタしている時だったとおっしゃられておられました。
しかしどのような経緯で移築されたのかは、今となってはわからないとの事でした。

・ 追記 (2024年)
なお、この裏門についての話として2017年12月に下野新聞社より発行された「下野国が生んだ足利氏 (下野新聞社編集局 [著] ) 」という書籍の中に、
「 (明治初期の) 藩邸処分の際、足利家 (喜連川家) に仕えた こちらの家 (伝・裏門のある家) の先祖が引き取り、現在地に移築したものがこの裏門である」
と、さくら市教育委員会学芸員の方の解説がありましたので記しておきます。

また上記にもありますが、この裏門は2021年に焼失してしまったため現在は存在していない事も記しておきます。

喜連川家 居城 移築 裏門

↑足利家の家紋「足利二つ引き」

足利二つ引き 瓦

↑瓦にも「足利二つ引き」の家紋

※本ブログ内の転載資料以外の写真等の著作物の無断転載など著作権法等に抵触する行為は、一切お断りしております。ご理解下さいますよう、宜しくお願い致します。

・参考文献

「喜連川町史第6巻(通史編1)原始・古代/中世/近世」2008年 さくら市史編さん委員会編

「喜連川御城下~そのくらしと文化~」2012年 さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-

「徳川実紀 第1編」明治37年~40年  経済雑誌社 ( 国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

「江戸切絵図・本郷湯島絵図」1849年~1862年 景山致恭・戸松昌訓・井山能知 / 編
出版・尾張屋清七(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

「下野国が生んだ足利氏」 2017年12月20日 初版第1刷発行 (下野新聞社 [発行] )・下野新聞社編集局 [著]

・ご協力・ご教示 さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館- 様

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コメント

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